経済学の杜(ミラー)

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マティス国防長官、その愛読書はマルクス・アウレリウス『自省録』

マティス国防長官、その愛読書はマルクス・アウレリウス『自省録』

 
人生を国家に捧げた軍人・マティス国防長官の愛読書「自省録」が紹介されてから、いきなり売り上げが伸びているようですが、この本をしばしば読むという社会人はいると思います。

この本には、現実を見つめるという姿勢が見受けられます。
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12313937/













「現実を見る」ということは非常に難しいということは以前もお話ししました。
http://keizaimori3.blogspot.jp/2016/10/blog-post_22.html

大人は、現実を直視できなくなり、他人の価値観に支配され、フィルターをかけていない、ナマのもの、本質が見えなくなっていきます。それは無理な物語にしてみたり、因果関係を設定したり、ほとんど自分の思考とはかけ離れたものです。

直視することは犠牲も大きいけれど、それを突破してはじめて未来への橋渡しができます。

 

節分会

受験生の中には今年、厄年の方もいるでしょう。
厄年はその年の元旦からなのか立春からなのかどちらか諸説はありますが、個人的には旧暦にしたがい立春からだと考えています。

女性の19歳、男性の25歳は人生にとって意味のある年齢と思います。
私の友人は25歳の時に亡くなり、偶然、その事故に遭遇しなかった私が助かったことをきっかけに、私の旅が始まりました。

人は「死」を予感することができます。それは自分なのか身内なのか明確ではなりません。そして、そのことを転機に、死に向かう自分を知って、はじめて他人や情報に引きずられない、自分が何者で何をするのかわかってくるはずです(これは三島由紀夫近松門左衛門らの作品にも一致します)。

 


TOKYO.【節分会】.the close of winter, Kongoji Temple 2017 (平成29年 高幡不動尊の豆まき)

話しの核心

何か回答を「話し」を媒介に伝達しようとするとき、必ず地域差が含まれるので理解が困難な場合があります。

youtubeなどで、試験の解説講義の動画がアップされていますが、筋の展開からおおよそその講師のバックグラウンドが含まれることがあることを取り上げると、例えば、

関東の人は、「あれは面白かった」、「この問題はやさしかった。」といったなどの印象や感想が多く、それらとQ&Aがごっちゃになっているので何が核心なのかわかりづらいです。

関西の人は。「今日、朝起きてな」、「飯を食ってな」、「バスに乗ってな」・・といった無駄な筋を設定するので、これもどこが核心なのかわかりづらいと感じます。

お互い同地域の住民であれば、その中から回答をピックアップできるのかもしれませんが、やはり「話し」という伝達手段は難しいはずです。


全国共通の認識で、Q&Aを明確に完結されることは極めてハードルが高いと感じるはずですが、今の学生はこれを世界レベルで達成しなければなりません。

ナッシュ均衡

 経済学部出身なら当然にお馴染みですが、公務員試験や資格試験の勉強をしていて、「ゲーム理論」から初めてナッシュ(1994年・ノーベル経済学賞)という人物を知る人もいるでしょう。

 このナッシュという天才、少しでも数学に興味がある人にはかなり魅力的に映るはずです。

実は、彼を描いた映画もあり、それがあの有名な「a beautiful mind」(邦題:ビューティフル・マインド)です。<アカデミー賞では作品賞、監督賞、助演女優賞、脚色賞を受賞し、ゴールデングローブ賞では作品賞(ドラマ部門)、脚本賞主演男優賞助演女優賞を受賞しています>。

 試験勉強中で、DVDを観る時間がないと思われますが、試験が終わって時間ができたら、観てみる価値は十分にあります。

※ナッシュの人物像から妻のアリシアは切り離せない存在ですが、実は1963年に離婚し、2001年に再婚しています。


A Beautiful Mind Ending Scene

 

「作品」はどこから産出されるか?

大学生が読む思想家の著作には、マルクスエンゲルスドゥルーズ=ガタリ、ネグり=ハートのような2人の共著があります。

これは1人の人間が描く世界感ではなく、2人の間、つまり安定性ない状況の中から作品が孕むと考えても良いでしょう。(ゲーム論的には3人、三角形構造になれば安定しますが)


同じ作家業でも、最適な言語を見つけるような翻訳業は共同作業が難しい仕事の1つであり、完成度が高くてもなかなか評価されません。
しかし、最適な言語を見つけるわけでもない思想書が2人の共著がうまくいくにはいろいろな理由もあります。

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日本はモノづくりの国であるが、もともとモノづくりをする人の多くは自尊心を満足するためにやっているので、共同でやったり、手伝ったりすることが苦手な人がいて、どういったプロセスで力を合わせて完成させていくのか、そのマネジメントが極めて難しく、企業の頭痛の種でもあります。

そう考えると、2人の巨匠が協同で作業をするとなるとその自尊心のぶつかり合いの激しさを増すように思われますが、実は、そのレベルに達するとすでに「言論」の領域を超えるので、ほとんど凌ぎはなくなると思われます。

不安定であって、伝えたいことがあるけど、それに該当する適切な言語が存在しない。
そこで、ようやく伝えるためにモノを作ったり、何らかのパフォーマンスをするわけです。
モノをつくるために、モノを作る。こうした二重構造(二重創作性)があることも言えるでしょう。

つまり、2人での共著というのは、そこには言語化させていない多くの財が交換されているのです。これは、夫婦や家族間で交換される財も同様で、そこをいかに読むかがまた楽しみの1つでもあります。

人類は言語を習得する前に、数を数えたり、算術的な発想を持っていたと言われているので、突き詰めれば、今後さらに、思想も数学的な道へと入っていくと思われます。

数字は無限にあり、見えて認識できるのはほんの一部に過ぎません。

















言葉では、真意は伝わらない

自分が自分らしく自然体でいられる時間を獲得することは極めて難しい。

 美術や音楽のような芸術の世界は、日常の言語(国語)空間では考えらえないほど多彩で多様なコミュニケーションを実現させることができるが、その世界に足を踏み入れると生活そのものを失うことになってしまう。

 ただ、自分が歩いてきた道で、出会った芸術家は比較的、生活を超えて、自分自身の「道」の獲得に成功していると思われる。

 私にとって数学や経済学は家業であり、美術の一環、デッサンみたいなものだと思っているが、年齢とともにかなり精度が落ちてきている。10年以内に、また本格的に美術界に復帰して鍛え直そう。日本の美術がリベラル・アーツを網羅していることを証明する。



               中條伊穂理 作